当山は、今から約六百年前の応永九年(1402年)に伊万里の腰岳の麓に、妙顕院日性上人により開創されました。
その後町の発展に伴い3回(法華谷→長谷→立町)移転し現在の地(立花町)は、明治32年からです。
今でも開創の地は、法華谷(寺屋敷)、法華川という地名が残っています。伝承によりますと、元寇の乱の以後外国からの侵略を防ぐための祈祷所として建てられた寺ともいわれ、又開山上人は、千葉県の出身と、伝わっています。

元寇の時、下総国(現在の千葉県北部)より千葉氏が、九州防衛の為九州に、派遣され、その後肥前国(佐賀県)に、土着したことと、千葉の日蓮宗大本山法華経寺第三世の日祐上人(千葉胤貞の猶子)の実父は、不明ですがおそらく千葉家宗家に近い立場の人物で、日蓮宗の重要な庇護者の出身だと言われています。その日祐上人の書かれた法華曼荼羅(南北朝時代、貞治6年、1367年)が当山に残されており、寺宝の一つです。

千葉氏一族は、妙見信仰を持ち家紋にも月星紋や曜星紋を用いており、また北辰妙見菩薩は日蓮宗の守護神の一つであり、日蓮宗との深い関係があります。

当山安置の妙見菩薩の厨子にも月星紋が入っており、又、日蓮聖人の大檀越であった中山法華経寺第一世富木常忍(日常聖人)の御分骨かと思われる「日常真骨」と書かれた包みも伝わっています。


長谷に残る石碑の主な物は慶長9(1604)年、慶長14(1609)年、元和9(1623)年、寛永12(1635)年の板碑四面と多数の五輪塔であり、当山が少なくとも慶長年間より以前には、法華谷より長谷に移転していたと思われます。その時より、山号を長谷山と改めました。安永元年(1772)に、立町に移るまでこの地にあり、この当時は、大川内山から吉田を越え、長谷を通り、伊万里の町へ行く道が本通りだったと言われています。
大川内山には、日蓮宗の信者が、多数あったことは、過去帳や大川内山に残る御経石、古い石碑、墓石から容易にわかり、当山の主な檀家の地域でした。


当時の世間の経済状態を考えますと寺院の規模(石垣等の遺構による)や移転再建の早さから、かなり有力な外護者がいたことが、想像できます。

当山創建当時より伝わる銅像誕生仏は、六〜七世紀(朝鮮三国時代)のもので、佐賀県の重要文化財に指定され、日本でも最古級の仏像です。

享保の中頃、当山の院代であった常入院日悟法師は、伊万里の水源地の基礎となる常入井戸を掘り、人々の飲料水の助けとなりました。

当山二十六世の遠照院日静上人(松島日静)は、身延山(総本山)第七十九世法主の日慈上人病のとき、法主代理を頼まれ入山、死後、八十代法主になるのを固辞して、帰山、又祈祷に勝れ、宮中や、宮家に度々召され、御布施の一部として、宮中に伝わる薬、加味四物湯・神妙婦王湯(菊の御紋入り)の製造、販売を許可され、昭和の終わりまで、妙顕寺の振り出し薬として、有名でした。

明治二十九年の大干ばつの時に、雨乞いの祈祷の功績により、現在地への移転の折には、檀家以外の協力をも得て、移転工事がなされ、今に至っております。

当山の守護神である鬼子母神は、江戸時代(貞享二年、1685年)の作で、身の丈7尺、末の子の手を引いた岩上の鬼形の姿です。子育て安産等に、霊験あらたかとして、広く信仰を集めています。

  銅像誕生仏(佐賀県重要文化財)  日祐上人筆法華曼荼羅        鬼子母尊神御宝前
中央の小さい厨子は、合掌姿の鬼子母神
岩上の鬼形鬼子母尊神とその子供
加味四物湯・神妙婦王湯の看板 宮中よりの拝領品 御先箱    宮中、徳川家よりの拝領品 
説相箱 御経箱 文書箱他
御祈祷秘伝書秘妙深奥書